今年に入ってからというもの、私の YouTube での活動は大きく減ってほぼゼロになった。年始に TCP/IP スタックを24時間で作ったあと、ほとんど更新していない。これには2つの理由がある。1つは仕事が忙しいためであり、もう1つは仕事の方が楽しいためである。
AI の登場により、正しいことを十分に行うコストが激減したと感じている。以前であれば、方法を知らない、時間が足らないなどの理由で実現できなかったことが、AI の補助によって可能になった。特に集団で仕事をしていて感じるのは、少人数のチームにありがちなスキルの穴を AI が埋めて補完してくれるようになったということである。スキルの穴埋めのために頭数を増やしてスピードを犠牲にしなくてもよくなった。仕事をするということに関して、今ほどおもしろい時代はない。
一方で、余計なことをするという点においてはどうか。「なぜベストを尽くしたのか」への憧れ で書いた通り、私は余計なことが好きだ。
経済的合理性のあるコンテンツでは、経済的不合理のおもしろさは出せない。
今、この前提が崩れ始めている。いや、もう既に崩れきっていると言いたい。正しいことを十分に行うコストが激減した。したがって、従来はコストがかかりすぎて不合理だったことが、合理的になってしまった。そこに特有のおもしろさはない。
では AI を用いてさらにコストをかけて、再度不合理な領域に入ればおもしろいのではないかと考えるだろう。しかし事態はそう単純ではない。今の AI が到達できる水準、あるいは到達できると思われている水準が高すぎてインパクトにコントラストがつかないのだ。経済的不合理のおもしろさは、受け手がそれを感じ取れるからこそ成立する。「AI に投げたら誰でもできるのでは」と感じられた時点でそれは成立しない。私はこれを「Proof of Work の終わり」と呼んでいる。
ここで、そもそも私はなぜ「余計なこと」が得意だったのかについて分析する必要がある。小学3年生くらいからコードを書いていた。もっと遡ると、物心がついた時から電子工作をしていた。そういう状況下では1つの物を作るにあたって作業を分担できるチームはない。小学生は企業勤めではない。物を作るというゴールに対して必要なことはすべて身につける必要があった。もっとも、物を作ることが目的なのか、作る過程とスキルの習得が目的なのかは区別がなかった。そんな分別を小学生に求めるのは酷であろう。
余計なことをチームでやろうとすると合意を取るのが大変である。正しいことは合意が取りやすい。合意が取りやすいことを正しいと呼んでいるだけかもしれない。ともかく、合意の取りづらいことを成すには極力1人でやらねばならない。1人で成すにはスキルが足りている必要もあるし、時間と手間をかける必要もある。だからこそ達成が難しく、驚きがあり、おもしろさがある。自ずと幅広いスキルを持っていた私は、あとは手間と時間さえかければ余計なことをやり放題だったのだ。
2026年1月初旬の時点では、フラッグシップの Coding Agent を用いてもなお TCP/IP スタックを24時間で実装するのは大変であっただろうと思う。少なくとも、視聴者の多くはそう思ってくれていたはずであり、だからこそあの企画のおもしろさは成立していた。
その後、2026年2月5日に Opus 4.6 がリリースされた。個人的にはこれがブレイクスルーだった。少し触っただけで実用的なコーディング能力があることがわかった。そして、Opus 4.6 に自分の専門分野である DBMS を開発させてみた。これは原理理解のためのおもちゃではなく、実用を目的とした分散時系列 DBMS である。数日ほどで私のアイデアは具現化された。そしてこのとき、ソフトウェアエンジニアリングにおけるボトルネックが大きく動いたということを実感した。
これは喜ばしい変化である。仕事をしている立場の KOBA789 は大いに歓迎している。ペグボードのフックを作って住環境を改善するという立場の KOBA789 も喜んでいる。困っているのは、余計なことをしてそれをお披露目し、見世物にしていた方の KOBA789 である。
今後私の YouTube チャンネルをどうしていくかについてはアイデアはない。今までもあまり考えずに運用していた。繰り返しになるが、今ある事実は仕事が忙しいということと、仕事の方が楽しいということである。
これまでプログラミングを飽きるほどやってきた。従来の「余計なこと」はそれを飽きるほどやった先に見つかったものであった。まずは現実が妄想に追いつくまで AI を使い、あるいは作り、飽きてからまた考えてもいいのかも知れない。







